法律入門講座
法学入門
目次
1 はじめに
2 「法」と「法則」の違い
3 人間規範としての法
4 法の目的
5 強制規範としての法
6 権力と法の対立
1 はじめに
ここでは,これから法律学を学ぶ上で最低限知っておいてもらいたいことを学習します。題名には「入門」となっていますが,実は,これから勉強することは,法律学を学ぶ中で一番難しく応用に位置するものともいえます。したがって,今の段階では,なんとなくわかったような気がする程度の理解度で十分です。憲法・民法・刑法・商法・訴訟法・行政法…と勉強がある程度進んだ段階で,再びこの「法学入門」を開いてみるといいでしょう。きっとそれまで学んだ知識に一本筋が通る感覚を覚えます。逆に,そのような感覚を覚えない場合は,まだまだ勉強が足りないということを意味します。
私たちがこれから学ぼうとする法律学は,近代革命以降の西洋法です。日本の法律は,明治以降西洋の法律を輸入しました。西洋で発達した法哲学を基礎においた法体系が,現在の日本の法体系となります。西洋人がその歴史的経験の中でどのような法体系を築いていったのかそれを理解することが,ここでの最終目標となります。
では,法学の世界へいざ出発。
2 「法」と「法則」の違い
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高校生の頃に勉強した,「物は地球の中心に向かって一定の加速度で落下する」というニュートンが発見した万有引力の“法”則も,“法”という文字を使っているが,この法則も,これから学ぼうとする法と同じ意味なのだろうか? |
「法則」とは,自然法則や社会法則のことを指します。これらの法則は,人間が努力するとしないとにかかわらず,常に一定であるところにその特徴があります。つまり,「法則」は,存在の世界,「〜である」の世界を意味し,人間が定めるものではなく,発見するものです。
それに対し,「法」とは,規範のことです。これは,社会における人間の行動を一定の方向に規律しようとする人間の意思がその背後に強く働いているところにその特徴があります。つまり,「法」は,当為の世界,「〜であるべき」の世界を意味し,人間が定め,人間がつくりだすものです。
 
法は規範で,法則は存在,つまり,法は存在ではないということですね。でも,「〜であるべき」ということは,「べき」のゴール地点が想定されていることを意味しますね。人間社会が求める最高位の目的みたいなものが「べき」の先にありますよね。これは何でしょうか?たとえば,「自由」というものがそのゴール地点だと仮定しましょう。この「自由」,つまり,人間は自由である「べき」といった場合の「自由」はどこから来たのでしょうか?そして,このゴールである「自由」を「絶対的だ!」なんて言い出したら,それは絶対的なものとなってしまい,はたして規範・当為といえるのでしょうか?「絶対的」ときたら,やはり「存在」と来るのが普通ですよね。
はたして,法は本当に当為(〜べき)なのでしょうか,存在なのでしょうか?
3 人間規範としての法
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なるほど法とはもともと存在するものじゃなく,つくり出すものだということは分かった。でも,誰がつくるのだろうか?モーゼの十戒みたいに天から授かるものなのだろうか? |

法とは,人間に出でて,人間を通じて,人間に働きかける規範です。
社会の中で生活する人間に対し,一定の意図をもって働きかけるものなのです。そして,どのような法をつくりどのように働きかけるかを決めるのもその社会に住む人間なのです。法とは,まさに,向こう三軒両隣にちらちら出没するところの,悩みや悲しみや喜びに明け暮れる存在,一言でいえば喜怒哀楽を免れることのできない愛すべき「人間そのもの」を,その対象とするものなのです。
 
高校生の時に私は夏目漱石の「草枕」を読みました。その冒頭に「向こう三軒両隣,ちらほら出没する…」とあったのを覚えております。何度読んでも,漱石の小説は難しくて面白い。
それはさておき,向こう三軒両隣の人々ってわかりますか?
別の言い方をすれば,「一般人」というものです。普通の人たちです。
哲人みたいな人を対象に法律を作っちゃいけないということです。哲人を対象に法律をつくると大変なことになります。たとえば,アメリカのシカゴで施行された「禁酒法」というものをご存知ですか?映画「アンタッチャブル」といえば,思い出すかもしれませんね。財務省の役人エリオット・ネスと,シカゴのギャングのトップ,アルカポネとの壮絶な闘いを描いた映画です。これは本当の話なのですが,なんでその当時のシカゴ州がギャングに支配されてしまったのでしょうか?
禁酒法とは,酒の輸入・販売を禁止した法律です。その当時のシカゴ州は,不況のあおりで,街中失業者であふれていました。そしてその失業者の多くは昼間から酒を飲み,へべれけになっていました。そんな大人達を見て,少年達も非行にはしり,社会は停滞していました。見るに見かねたシカゴ州の人々(特に親である女性)が,社会の荒廃を「酒」のせいにします。そこで,酒の販売と輸入を禁止する禁酒法が議会を通過し法律となったのです。
人は弱い生き物です。ときに過ちも犯します。ときに酒に溺れて現実の厳しさを忘れたいと思うのも人間の性でしょう。この普通の人間を無視してしまった法律が,まさに禁酒法だったわけです。
禁酒法が施行された後のシカゴ州は,映画にもあるように,ギャング(日本で言えば暴力団)が,酒の密輸・密売で法外な利益を上げて行きます。そしてその資金をバックに,警察などの行政府,裁判所,陪審員,州議会議員をどんどん買収して行きます。ちなみに,買収されない正義感ある公務員や証人は,つぎつぎと殺し屋に殺されて行きました。
つまり,普通の人を対象としない法,人間の弱さを無視した法が,悪のはびこる社会を生み出したのです。ちなみに,その当時の資金が今のマフィアの資金源でもあるといわれています。
では,この観点から,「覚せい剤取締法」の是非を皆さんはどう考えますか?
4 法の目的
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なんとなく法について分かってきた。でも,そんなもの本当に必要なの? 法なんてない方が,自由でいいような気がするんだけど。そもそも法って何でつくらなきゃならないの? |

もともと存在する自然法則や社会法則と異なり,人間によって作り出され,人間の努力を通じて人間に働きかけるという特徴をもつ法というものが何故必要となるのかといえば,この人間社会における秩序と調和は,人間のこのような意識的な営みがなければ到底実現できないからなのです。
人間は自我をもつ生き物です。自由に生きることを欲する生き物なのです。もし,人間社会に法がなかったらどのような社会になるでしょうか。きっと弱肉強食の世界となるでしょう。
しかし,一方でこのような現実があるにもかかわらず,人間の心の底には,秩序があり,かつ調和の実現された社会への希求が根強く存在することも事実でしょう。
そこで,弱肉強食になりがちな人間社会の中に秩序を打ち立て,調和を実現してゆくための工夫というものが,必然的に人間社会に生まれてくるのです。「社会あるところに法あり」との法格言はここから生まれてくるのです。
 
人間の心の中には,弱肉強食の社会を望む心が潜んでいます。これは否定したくても否定できない事実だと思います。もし,これがなかったら,きっと戦争も犯罪もない社会だったはずです。というよりも,そもそも法律なんてものも作る必要がなくなるでしょう。平和で安全な社会を望む一方で,心の中に戦争・犯罪を望む心(悪魔といっていいかもしれません)が確実に潜んでいるのです。
では,なぜ人間の心の中には悪魔が潜んでいるのでしょうか?
それは,私たち人間も生物のひとつで,地球という大地から生じたものだからだと思います。
「母なる大地」なんて表現があります。でも,本当は,大地すなわち地球は,決して母なる優しさに満ち溢れた物体ではないようです。逆です。「父のような厳しさ」を常に含有しているのが地球なのです。地球はこれまで何度も私たち生物にきつい仕打ちをしています。地殻の変動,隕石衝突,スーパープルームによる地球温暖化,地球全面凍結…,現在わかっているだけでも,地球はなんどもその変化により,生物を絶滅の危機にさらしています。
しかし,私たち生物は,この過酷な地球上で生き残り,生をまっとうしています。この生の裏には,数億という生物の絶滅の繰り返しがあったのです。つまり,現在,地球上にある生物はみな,過酷な生存競争を勝ち抜いた超エリート集団なのです。
地球上の生物たちは,この過酷な生存競争の中で,進化という手法を身につけ,そのときどきの環境に応じて生き延びてきたわけです。進化を忘れた生物は必ず絶滅しています。恐竜がまさにそうでした。「奢れる平家は久しからず」ってわけです。私たち人間のDNAの中にも,この数十億年という進化のプログラムが組み込まれていることは疑うことができない事実です。
つまり,私たち人間の心(遺伝子)の中に,生き延びるために競争に勝ち抜くプログラムが組み込まれているのです。他者を蹴落として,自分が生き残る必死なプログラムです。
これが,人間の心の中にある「悪魔」の正体だと思います。これを否定することは,人間の進化を止め,みずから種の死滅を選択することに他ならないと思います。
みなさんは,どう思われますか?
5 強制規範としての法
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なるほど法とは人間社会に秩序と調和を実現するものなのか…。でも,ルールを決めても,誰もそれを守らなかったら意味がないですね。やっぱり最後にはルールを守るように幼い頃から教育するしかないのかな…。それでも皆守らなかったどうなるんだろう? |

人間社会には,ほうっておけば無秩序と混乱に陥ってしまうという一面があります。このような社会に調和と秩序を実現するということは,この流れに対して人為的な抑制と方向付けを行うことを意味します。この実現には,秩序や調和の破壊者または破壊的な行動に対して,強力な統制を加えることが不可欠となります。そして人間社会においてこのような人為的で強力な統制を行える存在は,組織された社会力すなわち権力以外にありません。法がその意図するところを実現するためには,こうした権力の助けを借りる以外にはないのです。
そして,この権力を担う存在は近代以降の社会においては当然国家ということになります。
 
「権力」って何だかわかりますか?
人が集まれば必ずその場をしきる人が出てきますね。ちなみに、私はしきり屋ではありません。状況をみまもって組織の順列を見極めた上で慎重に行動し,しきり屋さんを影で動かすタイプです。嫌なタイプですね。
それはさておき,人が集まり,そこに共存関係が生まれれば,当然秩序(共同生活のルール)が必要となります。守らなければならない社会ルールってやつです。ここでの問題は,なぜ人はこのルールを守るのか? または守らなければならないのか? です。
学校や会社の中での規則を思い出しましょう。皆さんは,これまで多くの団体や組織に属して生きてきたはずです。そこには明示・黙示に限らず必ずルールがあったはずです。それを守らない人は,脱退を余儀なくされたのではないでしょうか。
ここで,私はいつも生徒に次のような質問をします。
「なぜ君達は法律を守るのですか?」
私の教務経験から,学生のほとんどは,「罰則があるからです」とは答えません。私は,ここに西洋と東洋の根本的な社会規範に対する違いがあると睨んでいます。
日本の法律は,実はそのほとんどが西洋からの輸入品です。法律も商品と同様に輸出入されることがあります。日本は,ここ150年ほどの間に,二度も西洋国に負けております。1回目は,明治維新のときです。2回目は第二次大戦のときです。1回目のときに,日本はそれまで培ってきた日本の規範を捨ててドイツ・フランスを中心とする法律を輸入して日本の法律にしました。2回目のときは,アメリカ・イギリスの法律を日本に輸入しました。戦争に負けるということはそういうことです。文化を捨てざるを得ない状況に追い込まれるのです。
日本は,東洋にありながら,政治・経済について西洋のルールを取り入れました。でも,それまでの生活習慣が急に変わるわけではありません。政治・経済という外見は西洋なのですが,生活という人間の核の部分には数千年に渡る日本の英知が引き継がれています。
この生活に根付いた日本の(東洋の)英知が,「罰があるから罪を犯さない」とヨーロッパ人のように言わない理由だと思います。
明治維新前の日本は,戦争があまりありませんでした。戦国時代はちょっと異例ですが,それでも天下分け目の戦いであった関ヶ原の戦は1日で終わっています。これがヨーロッパだったら100年間くらいは続いたのではないでしょうか。日本人は,その歴史の中で,平和な社会を築く知恵を心得ていたのだと思います。
それは,コミュニティー(地域社会)に対する帰属意識と責任感だと私は思います。
「我思う故に我在り」のように,自分中心に世界が存在するという幼稚な発想ではなく,「社会の中にあってこそ個人が存在しうる」という一段上の個人主義が日本の社会には根付いているのだと思います。ただ,この地域社会への帰属意識と責任感は,残念なことに都市を中心になくなりつつあるのが現実です。
この点について,皆さんはどう思われますか?
6 権力と法の対立
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秩序と調和を保つためには,結局は国家権力による強制力なのか。でも,国家権力なんて聞くと,戦争中の軍国主義日本とかナチスドイツとかを思い浮かべてしまう。もし国家権力を担う者がその権力を濫用したらどうなるの? |

ここで気を付けなければならないことがあります。それは権力というのもは必ず堕落するということです。権力を濫用する者が必ず現れるということです。国家権力が濫用された場合,われわれ一個人の生活などひとたまりもありません。
法は,権力の伴いがちな恣意に対しては,これを抑制することを意図し,権力の陥りがちな偏頗性に対しては公平・公正を主張し,権力の落とし穴ともいえる独善性に対しては客観性を対置せしめるという任務をもたなければなりません。
このような抑制・均衡・公平・公正・客観性という性質を必然的に有する価値の総称を正義(Justice, Gerechtigkeit)と呼ぶのです。法の理念はまさに正義の実現にあるのです。
正義というものは,ほうっておいて決して行われるものではなく,それを実現しなければならないという使命感に燃えた人間の努力に支えられており,その努力との比較的な関係においてのみ実現されるものなのです。
 
さて,かなり重みのある言葉が並んでいましたね。私は法律学が大好きなので「正義」なんて言葉をきくとゾクってきますね。
このへんについての概念は,後に刑事訴訟法を学んだときによくわかってくるようなものです。刑事訴訟法という法律は,簡単に言えば刑法を実現するための手続法ということです。刑法には,殺人をやれば死刑・無期・5年以上の懲役,とか窃盗すれば懲役10年以下とかが書かれている法律です。つまり,これを実現というのは,実際に殺人や窃盗を行った人を,ちゃんと(?)捕まえてきて,裁判やって,死刑にしたり刑務所に入れたり,それを監視したりすることです。
一見何の変哲もない手続法なのですが,実は結構深い意味があります。逮捕して裁判して死刑にしたり刑務所に入れたりする,と軽く言いましたが,これを実際に行なう警察や検察,裁判所,刑務官がもしこれを濫用したら大変なことになりますね。合法的に人を計画的に殺害できるのは裁判所だけです。人の命や一生を奪うことまでできる権力なんです。国家権力の頂点みたいなものです。
もしこの頂点の権力がときの権力者に濫用されたらどうなりますか。社会は暗黒に包まれます。
しかしだからといって,この頂点の権力を行使しなかったら,社会は犯罪天国になります。どうしてもこれを調和する必要がでてくるのです。刑事訴訟法という法律学ではこのような勉強をします。
私たちは,常にこの国家権力という化物(リヴァイアサン)が時の権力者に濫用されないかをチェックしていなければなりません。そして,その第一線を担うのが法律家ということです。
「正義の女神」をご存知ですか。ギリシア神話に出てくる神々の1人です。正義の女神の銅像は,世界各国の裁判所にあります。正義の象徴とされています。彼女は,片手に天秤,もう片方の手に諸刃の刃,目には目隠しています(目を見開いている銅像もあります)。それぞれにちゃんと意味があります。ある程度,勉強が進んだらそれぞれの意味を考えてみましょう。
Kenビジネススクール
代表理事 田中謙次
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